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今回は共栄社の成育期をお送りいたします。
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戦前の豊川市は、昭和14年に開廠した海軍工廠を中心にした町で、
大正から昭和32年まで、従業員100人以上の規模の民間工場は共栄社の他1社しかありませんでした。
昭和14年10月には価格統制令発布、暴利取締令施行がなされ、
農機具も価格・販売ともに自由が禁止となりました。
昭和16年12月8日に日本軍による真珠湾攻撃から開戦となり、
太平洋戦争へと拡大していきました。
また、軍の命令でアルコール製造に必要なサツマイモを切断するイモ切機の強制生産割当などもあり、
国民は耐乏と忍従の生活へと加速していきました。
この頃、共栄社青年学校が社内に設けられ、
青年工員の軍事教練を行いながら生産に励むこととなりました。
戦争はますます激化し、国の総力を挙げて戦う以外はなく、農機生産も半減していきました。
戦争も末期に近付いた昭和20年8月7日の白昼、
米軍B29爆撃機の大挙来襲によって東洋一を誇っていた豊川海軍工廠も一瞬のうちに壊滅しました。
8月15日、ポツダム宣言受諾により敗戦で戦争終結となりました。
戦時中の農機具生産への鉄の割当を見ますと、昭和11年を100とした場合に、
15年が42、17年が36、19年は実に20までとなっておりました。
終戦を機に今後の難局に対処する為、経営陣が一新されました。
昭和20年11月15日に代表取締役に林 嘉一、取締役に山本磯一、監査役に生田栄吉が就任しました。
新社長に就任した林 嘉一は、この時27歳で機械に関する知識の豊富な青年でした。
戦後の人心の混乱、食糧難、資材や電力不足の中で、
将来の進むべき道の決定、資材確保、新製品の開発研究などに心血を注ぎました。
夏季には、ダイヤモンド式動力脱穀機、人力脱穀機、冬期はマサル式製縄機の製造販売を続けました。
昭和22年頃から政府も日本の戦後復興の為、農業機械の品質向上と農業近代化を目的に、
毎年のように農機具共進会・博覧会を開催しました。
その間、当時の本社工場(古宿町)は狭かった為、
将来の発展に備え昭和25年に現在の本社所在地に用地を確保しました。
昭和25年セミスチール式の動力脱穀機の製造を開始しました。
また、昭和24年に、共栄会全国連合会が、共栄社製品の販売店の要望により結成されました。
目的は共栄社製品の生産に寄与し、技術の研究・向上と会員の親睦を図るとともに、
販売促進により全会員の利益に貢献することでした。
この会は各都道府県単位で結成されたもので組織されました。
創立総会は昭和24年4月27日、伊豆修善寺の明月荘で開催され、全国共栄会が誕生しました。
昭和27年は創業者、林 総吉が77歳の喜寿を迎えた年でした。
関係者により寿像建設が企てられました。
そして、工事を進めた結果すべてが順調に進み、総吉の誕生日である4月1日に除幕式となりました。
当日は夜来からの雨もあがり晴天となり、この佳き日を祝福するかのようでありました。
午前10時のサイレンを合図に幕が落ち、総吉の寿像が現れました。
この寿像は現在も本社正門で皆様をお迎えしております。
ここまでが成育期で、拡充期へと続いていきます。
(株式会社 共栄社 CS推進部 柴崎)
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